今日は船での海路探索、あと漁を半日行ってから樹海に行き、主には僕の採取を行いました。
海も森も探索ペースはゆっくりですが、誰もそのことに異を唱えないのでいい……のでしょうか?
ともかく、連日の漁や採取で段々とギルドのお金も貯まってきました。
お金は、あって困ることはありません。なくて困ることは、沢山あります。
後で読んだらなんだかイヤな感じかもしれないけど、一度お金について思うことを書いておこうかな。
まず、お金は武器と同じものだと思います。
沢山のお金は強い武器と同じ、強い武器は人の心を変えます。
例えば爪楊枝を突きつけられてもいうことを聞く人は少ないですが、ナイフを突きつけられればどうでしょう。銃なら?大砲なら?
つまりはそういうことだと思います。
そしてそれを持った人もそれを使うことに心を奪われる。
強い武器に勝てるのはもっと強い武器だけです。
嫌らしい言い方ですが、だからこそ僕は力も欲しいし、お金も欲しい。
沢山のお金を得るために僕から帰る場所を奪った彼らは、確かに憎いです。
でも、あの時僕がもっとどんな形であれ力を持っていたら彼らも僕に憎まれることなく立ち去ったのではないか、そう考えるのです。
強い武器をちらつかせれば争い自体がおきないことだってあるはずです。それはたぶん、いいことなのではないでしょうか。
死んだら何も残りません。だから命よりも大事などということは言いませんが、それでも間違いなく大事なものの一つなのです、お金は。
なんだか金の亡者みたいですが、嘘偽らざる僕の本心のひとつだと今は感じます。
ただ、やっぱり夢見てしまうのも確かです。こんな考え方を吹き飛ばしてくれるような何かが手に入ることを……。
皇帝ノ月 十六日
今日も半日は海路の探索を行っていました。
それで、その船に乗り込む前に港で噂を聞いたんです。新人ながら結構な速度で樹海を探索するギルドのことを。
でも何故かそのギルドの活動はなんだか不定期で、いや、それ自体は気ままな冒険者にはよくあることらしいのですが、どうもそのギルドはメンバーすらその日の活動をするかどうかわからないというおかしな事になってるんだとか。聞いた話だとワンマンのリーダーが突然居なくなる事があるらしく、そのせいで折角の実力を発揮できていないのではないかとのことでした。
ゆっくりながら毎日活動している僕らとどちらがいいのかはわかりませんが、なんにせよそんな勝手なリーダーのいるギルドはいやですね。うちのモッズさんのようになんいうかおおらかな人がリーダーだとやっぱり雰囲気もよくなると思いますがきっとそのギルドはギスギスしているんだろうなあ……。
そんなことを考えながら船に乗り込み、今日の探索を始めました。
海路の探索は順調で、木材から保存食、魚までいろんなものを手に入れて僕たちはホクホクで港へ戻りました。
夕方からの探索は迷宮に入り、二階をどんどんと進み魔物をどんどんと蹴散らしてついに三階への階段へと辿り着きました。
「やったー!」
僕は思わずガッツポーズをとっていました。
「うん、やっぱり筋はいいんだよな」
モッズさんが僕の頭をぼすぼすと叩きました。
「ありがとうございます。あ、でも……」
その時、僕は思いだしました。朝に聞いた奇妙な新人ギルドの話を。そしてやはり少しだけ疑問に思って聞きました。
「あの、うちのギルドって結構ゆっくり進んでますよね」
「ん? あー、まあもっと早い連中はいるなあ」
「焦りとかないんですか? その、先に迷宮を制覇されるかもしれない、とか」
「あー……なんつーかさ、この国の迷宮って俺の尊敬する賢者ノージが挑んだハイ・ラガードのとかと違ってあんまり人気ないんだよ。一応この下に沈んだ都市があるなんて伝承はあるけどさ、たとえば願いを叶える聖杯があるとか国が大々的に呼び込んでるとかそういう魅力が結構薄いんだよ。だから結構なんていうか、挑んでる連中は物好きが多いんだよ。名誉が欲しいとか富が欲しいとかじゃなくて、冒険がしたい、達成感が欲しい、腕試しがしたい。バラバラなんだよな」
モッズさんはその下に広がる未知の迷宮に響かせるように地面をダムダムと踏み鳴らして僕に言いました。
「ええと、うまくまとまんないな。テンマ、パス」
「えっ」
話の終着点を決めていなかったのか、そのままだらだらと言葉を続けていたモッズさんは急にテンマ君に振りました。
「えっとですね、つまりは各々の目的のために挑む人間が多いので焦りを生むということ自体が少ないのではないでしょうか。僕もさっきリーダーが言ったように冒険がしたくて、腕試しがしたい部類に入るのでやはりあまり、焦りはないですね」
「そういうもの……なんですか」
僕はどうにも腑に落ちなくて首を傾げます。なんで焦らないのでしょう? 先に進む事を急がないのでしょう?
考え込む僕を見てサカシノさんが声をかけてくれました。
「もしナナビー君が急ぎたいなら急いでもいいのよ、皆の了解を取ったらね」
「え、あ? ……はい」
言われて気付きます。なんで僕は焦っているのでしょう? みんなとの冒険は楽しいです。自分の辛い境遇もみんなといると忘れられる。
万が一の話ですがもしこの迷宮を制覇したらきっとギルドは解散するでしょう。そしたらみんなとはお別れです。そんなことは……望んでいないはずなのに?
「とはいっても、今の実力じゃだれも賛成してくれないから、もっとがんばらないとね」
「そうですね! がんばります!」
サカシノさんの言うことはもっともでした。確かに今の僕には焦ったところでどうにかなる力すらありません。
なにをするにももっと強くなってからです。うん、とりあえずはみんなに追いつけるくらいがんばろう。そう考えました。
「毎日欠かさず皆さんと一緒にがんばってるんですから、きっと今に追いつけますよね!」
「えっ……?」
不思議そうな顔をしました。誰もが、僕以外の全員がです。
「あ、そっか、ずっと一緒だったら僕が強くなった分皆さんも強くなるんですよね。うっかりでした」
とりあえず思い当たった理由を口にしてえへへと笑い、頭をかきました。でもそれがみんなの困惑の理由でないのは明白でした。だってみんなはそのあとも不思議そうな顔を続けていたのですから。
ナンナンが鳴いています。
僕は何かおかしなことを言ったのでしょうか……? 帰ってきてからずっと考えていますが思い当たりません。
うーん、考えすぎでしょうか。なんだか眠くなってきたので考えるのはまた明日にします。
ナンナンの鳴き声が子守唄のようで、今日はよく眠れそうです。
今日もまた、一階を探索しました。
先日モッズさんは出来れば二階へ上がろうと言ってくださったのですが、今日の僕はそれを断りました。
もちろん意味もなくではなく、「なんとなく上の階へ進む」というのがはばかられたのです。
何か上へ行っても大丈夫、そう思えることが必要で、その証拠、確証……素直に言えば自信が欲しかったのです。
「確かに……時間空けてすぐに次の段階ってのも問題か。賢者ノージ曰く『戦いに於いて足手まといなのは力のない者では無い。覚悟の無い者だ』ってな。君自身に覚悟がなければ力があってもかえって危険だってのには同意だ。そうだな、それじゃあ……」
モッズさんの提案は単純かつ、今の僕には非常に恐ろしいものでした。しかし、それができるならば確かに僕は自信が持てるだろうと思ったので承諾しました。
「あのヤマネコをぶっ倒してやろうぜ」
樹海に入ってしばらく歩くと、案の定何度も僕が背中を見せたあのヤマネコの姿が見えました。
「い、行きます!」
「おう!」
僕は陣形の都合上後ろからですが気合を入れました。モッズさんが皆に説明してくれたので、今回は逃げることはせず真正面から立ち向かいます。
こちらに気づいたヤマネコが地をひと蹴りすると一瞬のうちに互いが戦闘の間合いになりました。先に発見したのは僕たちでしたが、攻撃を仕掛けるのは向こうの方が早く、後手を選ばざるをえなくなりました。
まず一撃、サカシノさんが盾に攻撃を受けました。大きな体から繰り出される爪の一撃は盾ごしであってもサカシノさんをひるませるだけの威力があるようです。
「くっ」
と小さく声を漏らしたのを合図にしたように全員が攻撃を仕掛けます。
テンマ君が刀で切りつけ、動きを止めたところにコーヴィアちゃんの術が当たります。さらに怯んだ隙に至近距離からモッズさんの弩、そして僕の小剣もあまり深くはありませんがヤマネコの皮膚を切り裂くに至りました。
ぞ、と重い手ごたえが手に伝わりました。
今まで倒してきたドリアンや魚とは違う、哺乳類の皮膚を斬る感触に一瞬の戸惑いを感じましたが手負いになったヤマネコはそんな逡巡を許してはくれません。
狩りをする動物は群れの中で一番弱い者を狙う、とお父さんから聞いたことがあります。
先ほどは先制攻撃を仕掛けたため一番手近なサカシノさんに攻撃したようですが、今度は違います。パーティーで一番弱い僕が狙われたのは当然でした。
「ナナビー!」
サカシノさんが咄嗟に盾を突き出したおかげで僕に届く爪が若干逸れました。しかし外れはしなかったのです。
血が出ていました。今までの小さな傷とは比べ物にならないはっきりとした流血が、くっきりと刻まれた腕の爪痕から。
いままで皆さんがこのヤマネコとの戦いを避けていたのはつまりこういうことです。
僕が狙われれば守りきれない、守りに専念したら倒せない。おそらく僕がいなければ皆がそれぞれの役割を分担するだけで倒せる相手なのです。
だから、だからこそ僕は叫びました。
「大丈夫です!というか、今です!」
ヤマネコは一番弱い僕をしとめきれなかったと見るやもう一撃を加えるべく構えました。しかしそれを許すほど、僕の仲間は甘くはありません。
がら空きの胴体に突き刺さる刀、顔面を焼く炎、撃ち抜かれる脳天。おそらくは絶命させていたでしょう。しかし、振り上げた爪は重力にしたがって僕へと落ちてきました。
モッズさんが叫びました。
「とどめだ!ナナビー!」
「はい!」
なんとか取り落とさずにいたナイフを反対の手に投げるように持ち替えて、崩れ落ちるヤマネコの胸にむけて突き上げました。
ずぶりという、皮を裂き肉を貫く独特の感触のあとにずしりとした重量感、というかそのまま倒れこんできたヤマネコの体の下敷きになってしまいました。
「大丈夫か?」
「いててて……あ、だ、大丈夫です!」
ヤマネコの下から引っ張りだされてそう問われ、腕の傷を見ると急に痛みが襲って来ました。血もまだ止まっていません。
「よくやった、どうだった?」
「えと、夢中でよく、わかりません」
正直に答えると、モッズさんがニヤリと笑いました。
「わからなかったかー、じゃあしょうがないよな?皆」
「モッズさんは意外と意地悪ですよね」
テンマ君が困ったように笑います。
「あまりやり過ぎないでくださいね」
「ここからは慣れの問題なのです」
メディカを僕に差し出しながらサカシノさんがモッズさんに笑い、コーヴィアちゃんが得意げに笑いました。
僕は受け取ったメディカを飲み干しながらも事態は全く飲み込めずに、それを他人事のように眺めていました。
そして傷の回復を見たモッズさんが笑いながら僕に言いました。
「んじゃ、もう一匹な」
「はぁ、えっ?」
モッズさんが指差した方向にこちらの様子をうかがっている別のヤマネコがいるのが小さく見えました。
「さあ、自信つくまで狩りまくるぞ!」
「え、ええ!?」
そうして、結局今日は暗くなるまでずっとヤマネコ退治を繰り返していました。
何度かピンチになる場面もありましたが、潔く逃げたりなんとか立て直したり、ともかく狩りまくりました。
あれだけ何度も倒したのに、今この手に残っているのは最初のあのヤマネコにトドメを差した時の感触です。
「もう大丈夫……です」
「そうか、じゃあ今日はこんなところだな」
もう消えてしまった傷跡のあった場所を見つめ、荷物から小剣を取り出してブンブンと振ってみました。
「明日からは二階でがんばるです」
「うん」
宿で持つ小剣は冒険中とは比べものにならないくらいに重く感じます。
「油断はしないでくださいね。慣れは慢心を生みますので」
「わかりました」
でも、あれは、あのヤマネコの重みはこれとは違うものでした。命の重みでした。
「気にしないで、とは言いませんが……これが冒険者という生き方なのですよ」
「……はい」
サカシノさんが言ったのはこのことでしょう。
皆のフォローで精一杯だった僕が始めて今日、本当の意味で戦い、敵を倒したのだと思いました。
これからの冒険で僕は何十何百という魔物を葬って進むのかもしれません。その時でも、今日の気持ちを忘れずにいたいと思います。
それが魔物であっても、その未来を奪うことに対する覚悟。僕に足りなかったのは上の階に行く心構えなんかじゃなく、きっとこれだ。
ナンナンが鳴いています。
今日は疲れました。もう寝ることにします。
皇帝ノ月 十五日
今日はついに二階へ行きました。
結果から書くと順調そのもの。
一階から思ったほどの差はなく、一部の魔物が大きいものになっていたり、群れの規模が大きくなっていたくらいで倒せないものは殆どいませんでした。
ただ一種類、巨大な体に巨大なくちばしを持った緑色の怪鳥だけは撤退を余儀なくされました。
テンマ君が言うには
「一階でヤマネコと渡り合えるようになった冒険者が次につまづく相手です。僕らも殆ど正面からは戦っていないです」
とのことで、倒せるがリスクが大きいので不意をつけた場合だけ排除する方針とのことです。
ああそうだ、二階にはもう一種どうしようもない魔物がいるのでした。
毒を撒き散らす大蜥蜴です。
上の巨大な鳥とは全く違います。挑めば必ず負ける相手だと、皆言っていました。死ぬと分かっている相手と戦うのは冒険ではなく無謀とも。
しかし、そんな話をしながらも皆の目は後ろを見てはいませんでした。いつか絶対に倒す、倒せるようになるという決意が見てとれる目でした。
だから僕もそう願って努力します!
二階を三分の一くらい探索して本日は終了です!
深夜、キタツミの心配は現実のものとはならなかった。
「あとは明日だ」
ナーバンが探索の切り上げを宣言したのだ。疲労度は全体的に見て七割程度といったところで、なんとも絶妙と言える。
キタツミはアワザと視線を合わせて互いの状態を確認する。消耗具合で言うならば互いに平均の七割、ほぼ同等に見えた。後に続くシバンポもそう変わらないだろう。
これはおそらく久々の探索で著しく、九割ほど疲弊して見えるエリホのための措置だった。つまりナーバンは平均より下、まだ余裕があるように見える。
キタツミはここに至って一つ認め、二つ疑った。
ナーバンという男は自分達の誰よりも成長が早く、運動力に差はあれど単純な体力では追い抜かれた。それは認めた。
しかし、およそ十日前には自分の体力の限界もわからずへばっていた人間が数日のブランクの後にパワーアップしている。そんなことがありえるのか?
そしてもう一つ、彼はこんなに気の使えるリーダーであったか?
街へと戻ろうとする背中に、聞き慣れない声が聞こえた。
「あっ、あの……」
一同が身構えて振り向いたのはそれが先日疑念を抱いた相手、オランピアではないかと考えたからだ。
だがすこし先の広場から声をかけてきたと見えるその影はあの不可思議な少女のものではなかった。
金髪を頭の横でポニーテールにした印象的なシルエットに、ゾディアック特有の葬具も見て取ることが出来る。
互いに敵意がないことを、無言で睨みつけるナーバンをなだめながらではあるが、示して間合いを狭めるとそのゾディアックの少女はおずおずと語りだした。
「アタシはムロツミというギルドの星詠みのカナエといいます。実は……」
カナエの話はかいつまんで言うと同じギルドのシノビの少年とはぐれたので見ていないかというものだった。全員が顔を見合わせるが見覚えのある者はいない。
それを告げるとカナエは心配そうにため息をついてもう一度控えめに尋ねてくる。控えめではあるが、先ほどよりは幾分力強い。その口調から彼女がそのシノビの少年を想う気持ちが伝わってくるようだった。
「あの! もしよろしければお願いを聞いてもらえません? この先でアガタを見つけたらどこにいたのかをアタシに教えて頂けないでしょうか!」
「断る」
その切なる頼みを無下に斬って捨てたのはやはりナーバンだった。
「ちょっとリーダー!」
わざわざ普段使わない呼称でキタツミが怒鳴ったのは単純な抗議ではなく、カナエに彼がリーダーであるとアピールする目的と、ようやく芽生えたのかと思っていた人を思いやる気持ちを想起させようという企みからだった。
「別に見つけろって言ってるわけじゃなくて見かけたら教えてくれってだけじゃない!」
「……見かけると思うか?」
「え?」
「シノビというのは素早く、その名の通り忍ぶものだ。単独ならばなおのこと身を隠しながら行動するだろう。それに加えて小さな少年だと? 積極的に探さずに見かけるなんてことがあれば奇跡だな」
「ぐっ……」
キタツミは何も言えない。いちいち理屈っぽいな、くらいは言ってもよかったのだがいかんせんその理論にかなり同意してしまったのでどうにも格好がつかなくなっていた。
「…でも、…それでも、もしアガタを見かけることがあれば教えて頂けると嬉しいです」
そう言うとカナエは深々と頭を下げて一同の横をすり抜けて去っていく。
時間からして彼女も宿へ帰るのだろう。断った手前一緒に戻るのもバツが悪く、しばらくその場に気まずい沈黙が流れる。
「……もし奇跡的に見つけたら教えてあげなさいよね」
「見つけたら、な」
しばらくたってキタツミが発した言葉に一応の同意をして、ようやくツーカチッテは帰路につくのだった。
明けて翌日、探索は順調だった。
昼間は活発に活動する巨大な鳥がいるため夜ほどの進軍は望めなかったが、それでも新人ギルドの進み具合としては充分過ぎるだろう。
エリホもペース配分を思いだした様子で、なんの問題もなく一日が過ぎる。
そして冒険再開から三日目の夜、三階に続く階段を早くも発見して、ナーバンはぼそりと呟く。
「ダメ、だな」
「え?」
反射的にエリホが聞き返す。
「一昨日の女が話してたガキのことだ。一人でどうにかなる道のりじゃない」
そう続けたナーバンの表情はいつもの仏頂面ではあったが、ほんの少し辛そうに見えた。
確かに魔物が多少大人しい夜であっても彼ら五人が苦もなく敵を蹴散らして闊歩しているわけではない。
時には押されて陣形が崩れたり、不意を突かれて逃げ出したり、そういった様々な戦闘をなんとか乗り越えてその中で前へと進んでいるのだ。
相当の手練でなければこの階段まで一人で来ることは難しいように思えた。
「まあいい、他人のことなど構っている暇はない。明日からは三階を……」
<しんじゃったら、なんにもなくなっちゃう>
不吉な考えを振り払うように、少し声高に宣言しようとしたナーバンの言葉が不意に途切れる。
「どうされました?」
今度はエリホの問いにも答えない。
「とりあえず、戻るぞ」
何事かと訝しがる面々を尻目に、ナーバンはそれだけ言って歩き出した。
「嘘ぉ……」
無言のまま宿へと帰り、結局宣言の続きを聞かないままに解散したツーカチッテのメンバーが翌朝見たのは三日前と全く同じものだった。
『しばらく探索は休み、再開時はここに書く』
連絡用の宿の掲示板に書かれたその文字を呆然と見つめて、次に互いの顔を見合わせて、がっくりと肩を落として、とぼとぼと部屋に戻るより他にどうしようもなかった。
「どこ行ってんのよあのアホリーダーはぁぁぁ!!!」
午後、宿の庭で怒鳴りながら大木をドカドカと殴るキタツミの姿はこの後ツーカチッテの名物のひとつとなるのだが、彼女はまだそんなことを知る由もなく苛立ちを拳から太い幹へと叩きつけるのみである。
「集まったな」
インバーの港でギルドメンバーを前にしてのナーバンの第一声はそれだった。そして第二声はなくすたすたと船へと歩きだす。
「ちょい待ち。アンタ他に言うこと……あるわきゃないか……」
もう無視されるのにも慣れたキタツミは去り行く背中に弱々しくかけた言葉が地に落ちるのを確認して後に続く。
アワザはキタツミの方を向いてお手上げのジェスチャーを行い、エリホはいち早く走り出してナーバンの腕にぶら下がっていた。
「そういえばナーバン様」
「なんだ」
「この船の名前はお決めになったのですか?」
「船……名前か、必要か?」
「やはり、他のギルドもつけておりますし」
「ふむ……」
遠くからその様子を見てキタツミはまたむくれる。
「エリホちゃんには返事するのよねぇ」
「都合の悪いことは聞かない主義のようだな」
アワザがそう呟くと、シバンポが割って入った。
「アレはもうキョイゾンですネ。気をつけンと危ナイのデス!」
「キョイゾン?」
「ソです!チューイして見るのがイイですヨ」
「よくわかんないけど、あの二人に注意しろってことね……まあわかっちゃいるんだけどね……」
前方ではナーバンが船の名前を完全に思いつきで「ビフォアサウザン」として、それをエリホが絶賛している。
「アタシなんかと喋ってるより本人が幸せそうだからなぁ」
ぽりぽりと頬を掻く姿はなんだか嫉妬しているようにも見えてアワザは思わず笑ってしまう。
シバンポはそんな様子を知ってか知らずかまたニコニコとただ微笑んでいた。
船の上ではナーバンが難しい顔をして波間に映る朝日を眺めていた。
「どこに行ってらしたのですか?」
エリホが控えめに尋ねるが、ナーバンは答えない。
ただ、キタツミに対しては徹底的に無視を貫くのに対しエリホ相手だと少し困ったような表情になるのはやはりなにか後ろめたさがあるのかもしれなかった。
「お答えいただけないのなら仕方ないです。でも危ないことはお止めくださいね」
「ああ」
「操舵を替わって参ります」
「ああ」
心配げな顔をナーバンの脳裏に残してエリホは舵へと向かう。
どんな冒険者でも操れるように極力簡素化された舵ではあったが、基本的にエリホが担当していたのは曲がりなりにも海賊であった経験からだ。
ちなみに他の面子はというとナーバンはそもそもやる気がなく、シバンポに任せるのは不安だと全員が止めた。アワザは出来ないこともないらしいが積極的にはやらず、エリホが離れる際にはほとんどキタツミが舵をとっていた。本人曰く
「アタシは武者修行でそこらじゅう廻ってたから最低限なんでもできるよ」
とのことだった。
というわけで、エリホと交代してキタツミがナーバンの前に顔を見せたのだが、当然のようにナーバンは仏頂面で気にする様子もなかった。
「調子どう?」
やはり無言。
「なんで船なの?」
当然無言。
「樹海に行きたくないの?あんなに執着してたのに」
「行きたいに決まってるだろう!」
急に大声をあげ、拳をマストに打ちつけたナーバンにキタツミはたじろぐ。怒っている、というよりはなにかに葛藤し悩んでいるような表情だった。
「……気持ちの切り替えがうまく出来ていないだけだ」
が、その表情もすぐにいつもの不機嫌そうなものに戻り吐き捨てた言葉と共に手振りでキタツミを追い払う。
キタツミはそれを見て、これ以上の追求は互いのためにならぬとその場を後にしたが、案の定いつもの違和感に襲われていた。
「探索したいのに行かない?行けない?気持ちの切り替えってことは、何か別のことをしてたってこと?……あんなに樹海の奥に行きたいヤツが?」
(また、矛盾している)
積み重なる矛盾は増えるばかり。キタツミの心には硬く閉ざされたナーバンの心の隙間に挟みこまれた矛盾の楔がいくつも見えていた。
だがそれはまだ浅く、その扉が開くのはもう少し先のことである。
今はただその背中に纏う危うさから目を離さぬよう見つめ続けるだけであった。
現在昼休憩中です。
今日は黙々と一階で探索と採取をしていました。まだまだ例のヤマネコからは逃げっぱなしですが、それ以外の魔物とはかなり渡り合えるようになってきました。もちろん他の皆さんはこともなげに倒せるのですが僕のために遠慮して弱った敵を残したりしてくれているのがわかります。
前にも書いたように、そのことについてうじうじするのはやめようとは思いますが、せめて早くみんなの足をひっぱらないようにだけはしたいです。あとは、うーん、僕はどんな冒険者になればいいんだろう。
例えばモッズさんはバリスタですがみんなを守れるようになりたいので前に出ると言っています。その分危険も多いですが本人はそれでいいと言います。他の人もそれぞれに目指すものがあるようですが、僕にはそれはありません。ただ、漠然と強くなりたいと思っているだけ。冒険者としては、それではいけない気がします。
冒険を始めて三日……まだこんなことを考えるのは早いのかなぁ。まだ三日かぁ。なんだか随分長く、あれ?ナンナンが鳴いています。
夜です。
夕方からはずっとまた海の上でした。なんでも昨日船に乗っている時に僕がもの思いにふけっているように見えたんだそうです。だからなのか、話を聞くなら船の上の方がいいと思ったとかで、確かに僕がぼーっと星を眺めていたらみんながかわるがわる話しかけてくれました。
モッズさんとサカシノさんとは他愛のない話を。
その次に来たのはテンマ君。
「ナナビーさんは、亡くなったお父さんのことどう思ってました?」
突然の質問に面くらいました。でも多分、僕はお父さんのことを話したくなっていたのでしょう。すぐにすらすらと返事が出来ました。
「尊敬してました。いつかお父さんみたいになりたいと思っていました。お父さんからは無理だって言われてましたけどね。……テンマ君は?」
「同じですね、僕も父上を尊敬しています。でも父上は『お前は俺と同じになる必要はない』って。旅に送りだしてくれた時も最後まで父上が反対していたそうです」
「お父さんもシノビなんですか?」
「いや、違うんですが、ええと、複雑なのでそのへんはちょっと……ともかく、尊敬していますし誇りに思います。それは間違いありません」
「僕もです。お父さんは……僕の人生のお手本でしたから」
思いだして、空を見上げます。キラキラと光る星は今にも落ちてきそうなほど眩くて、なんだか目に沁みました。
「でも、うちの場合は母上もよく言ってましたよ。『父さんは立派だけど、単純で鈍感で女心がわからない方だからそこは見習っちゃだめよ』って」
「あははは、それはなんていうか」
「おもしろいですよね」
僕らは笑いました。笑いすぎて、涙がこぼれました。
テンマ君が去った後、コーヴィアちゃんが来ました。
「ナナビーさんは、何になりたいですか?」
「えっ、ええと、それ、モッズさんが聞いてこいって?」
「いいえ? モッズさんからはただ『ナナビーと話をしてやってくれ』って言われましたですよ」
なるほど、つまりその前のテンマ君もコーヴィアちゃんも、僕の心の中にあるもやもやの原因をなんとなく感じ取って話してくれていたというわけです。と言うか僕がわかりやすいのかな……。
「そうですか、僕は……昔はお父さんみたいになりたかったんです」
「お父さんみたいに?」
「ええ、さっきテンマ君にも言いましたけど、お父さんが僕の人生のお手本でしたから」
するとコーヴィアちゃんが満面の笑みで手を握ってきました。その手はあんなに強い術を撃てる女の子とはとても思えないくらい華奢で驚きました。
「私と一緒なのです! 私も母さんたちみたいになりたいのです」
「テンマ君も言ってましたよ。けど……」
「けど、なんです?」
「結局、お父さんは全てを失ったんです。自分が築いた家も農場も家族も全部。それはもちろん僕のせいなんですけど、何も残ってないお父さんの人生って、正しかったのかなって、ちょっとだけ思っちゃって」
「それは……違うと思います」
コーヴィアちゃんが握っていた手に力を入れて言いました。
「ナナビーさんが残っています、生きてます。農場は、いずれ取り返すことも出来るです。命は返りません。ナナビーさんが立派に生きることが、多分ナナビーさんのお父さんが残した人生の証拠です」
はっとなりました。
「母さんは言いました『あなたは私達の娘だけど、あなたなの。あなたらしい人生はあなたがみつけるの』って。ママが言いました『親を越えてこそ子供、さあ私を倒してみよー』って」
「自分らしい人生……ですか。親を超える……です……か」
少し考え込んでいると、コーヴィアちゃんは手を離して船室に戻ると言いました。
僕はまだ星を見ていると言って、甲板に寝転がりました。
答えはまだ出てきません。でも一つだけは決めました。どう生きるか、それはきっと今の僕には早すぎる悩みなのです。
だから頑張ります。頑張って生きます。それだけは決めました。死んじゃったら、何もなくなっちゃうから。お父さんが残してくれたものが全部なくなっちゃうから。
頑張って、生きます。なくさないように、消さないように。
皇帝ノ月 十日
今日は一日樹海でした。
なんだか今日はのんびりした探索な気がしてそう言ったら
「ペースは昨日と変えてない、それは君が強くなってきている証拠だ」とモッズさんに言ってもらいました。
途中、二度ほど魔物の少ない陽だまりで休憩をしました。その時に言われたのですが、やはり僕の体力や適応力は予想外なのだそうで、普通なら一階を悠々と歩けるまでに一週間くらいはかかるだろうとのことです。これが農場での経験で培われたものなのだとすれば、きっとこれもお父さんが僕に残してくれたものなのでしょう。
明日以降は、もしいけるなら二階に上ろうとみんなが言ってくれました。
なんだか嬉しいな、明日が楽しみです。
今日から、ついに僕の冒険者としての新しい人生が始まります。
モッズさんからいただいた装備品を身につけて、いざ出発です!
ナンナンが鳴いています、うーん……連れていっていいものなんでしょうか?
現在昼過ぎです。
僕が今日はじめてと言うことで、まずは簡単に樹海のイロハを教えていただくことになり、一旦戻ってきました。
朝のミーティングではC.A.S.Wの皆さんと自己紹介をし合いました。
モッズさんは前にも書きましたがバリスタ。頼りになるお兄さんという感じです。探索でも皆さんをぐいぐい引っ張っています。
サカシノさんはファランクス。女性の方ながら重い装備で前線に立っていてすごいと思います。でも物腰の柔らかな優しそうな方です。
テンマくんはシノビ。女性のシノビ(東方の国ではくのいちと言うそうです)の姿ですが男の子。理由はいろいろあるそうですが、とりあえず祖国のしきたりだということはわかりました。僕より年下ですがしっかりとした子に見えました。
コーヴィアちゃんはゾディアック。テンマくんよりさらに年下の女の子です。ですが、立派に戦っていました。というか、星術の威力は誰の攻撃より強くてびっくりです。
次の探索は夕方からなので体を休めておくように言われました。寝過ごさないよう気をつけながら休むことにします。
あ、ナンナンについてはモッズさんが、
「そいつが責任を持てるならよし、そうでなければ君が責任を持て。賢者ノージ曰く『今、オレ達は……太陽と一緒に戦っている!』ってな。その子が君の、もしくは君がその子の太陽だというのならば、ずっと一緒にいたいだろ?」と言ってくださったので同行させていただきました。
モンスターに出会うと荷物の影に隠れてしまいますが、お邪魔をすることもないのでよかったです。
今「よかったね」と言ったら眠そうな顔で返事をしてくれました。
僕も休みます。
現在深夜です。
今日のことをもうちょっときちんとまとめようと思います。
まず朝、上にもちょっと書いたように自己紹介と今後のことを話し合いました。皆さんとても優しそうな方ですごく安心しました。今後のことというは結構簡単な話でした。
皆さんはすでにそこそこの階まで探索を済ませているのだそうですが、僕が完全な初心者だから少しの間は探索に慣れるためにも一階をうろうろしようとのことでした。僕のために皆さんの探索が滞るのは本当に心苦しかったのですが皆さん笑って「頑張って」と言ってくださったので少し気が楽になりました。
それと、モッズさんが「賢者ノージ曰く、『全は一、一は全』お前さんを加えると決めた時からオレたちゃ一つなんだ。未熟結構、その未熟なお前も含めてのこのギルドなんだからな」と言ってくれたので、もうそのことについてなにか言うのはやめようと思います。言うほうが失礼だと思いますので。
それに今日の夕方にはサカシノさんにも褒めていただきました。
「随分とタフだし、見た目よりずっと度胸がありますね。普通は探索初日だったらもっとオドオドするものだし、緊張で数時間もいられない方もいるんですよ。私なんてヒドかったんですから」
「確かに、盾持ってられないくらいにガタガタになってたのは参ったもんだ。やっぱ農場暮らしってのは体力つくもんなんかね」
モッズさんがからかうとサカシノさんは顔を赤くしていましたが、自分で言い出したので何も反論できないようで皆さん笑っていました。
笑っていいのかわからないでいるとサカシノさんが、
「もう、モッズさんヒドいですよね」
って微笑みかけてくれたので僕も笑いました。
皆さん本当にいい人たちです。なんだか、頑張れそうです。
ナンナンも皆にかわいがってもらってるし、よかった。本当によかったです。
皇帝ノ月 八日
今日は朝のミーティングでモッズさんが「船も乗ってみるか?」と言ったので、昼過ぎまで海の上にいました。
なんでも、元老院に認められた冒険者はあまり大きくはないですが船を支給されて、近海の探索も行うように言われてるのだそうです。
港に行ってみると、確かにあまり大きくはないですが近海を回るには充分に立派な船が停泊していました。
「いい船だろ、『ラインオブミドゥ』ってんだ」
「ご飯がもたないから遠出できないのです」
コーヴィアちゃんが言う通り、まだ遠出をするには保存食が足りないそうで、そういう技術を見つけて回るのも海を探索する目的の一つなんだそうです。でもモッズさんが言うには、いきなり遠くまで行かせたら危ないからある程度の食料があっても渡さないんだろうと言っていました。
確かに、良く考えればうちで作っていた干し肉を持ってくるだけで結構な日数が賄えるはずなのでそういう部分はあるのだと思います。
でも久しぶりに出た海の上はすごく気持ちよかったです。
お父さんが生きていた頃は、知り合いの漁師さんの船に乗せてもらった事もあったっけ。
それで、夕方からはまた少し樹海の探索をしに行ったのですが、昨日連れて言ってもらった場所で、使える素材が採れそうな場所があったのでそこへ連れて行ってもらいました。あまり大したものではありませんが、薬の材料になるものなども採れたので冒険者が樹海で手に入れたものを売りに行くと言うお店の店主さん、ええと、ネイピア商会というところだったと思います、そこの店主さんにも感謝されました。
C.A.S.Wにはこういうのが出来る人がいないのだそうで、皆さんすごいすごいと言ってくれて、なんだかくすぐったいけど嬉しかったです。小さい頃から教わっていた知識が役に立って、海の上のことと合せてなんだかお父さんのことを思いだしてしまいました。
ちょっとだけ、寂しいです。
でもナンナンもしるし、何より今はC.A.S.Wの皆がいてくれるので大丈夫です!
そういえば、今日は探索中に大きなネコに襲われました。
みんな一瞬戸惑って、それから逃げました。多分アレは、僕がいると危ない相手だったんだと思います。皆さんだけなら勝てるのに、僕をかばってる余裕がなくて逃げた、そう見えました。
強くなりたいです。心も体も。
皆の足手まといにならないくらいに、それと、理不尽なことにイヤだと言えるくらいに。
お父さんの農場を、いつか取り返せるくらいに……なれたらいいな……
「一つ階を登っただけで随分といろいろ絡んでくるやつがいるな……」
ナーバンが先日の金髪のいけ好かない青年を思いだしながら睨みつけているのは眼前の人影。肩からすっぽりとマントのような布をかぶった、なんとなく冷たい印象を受ける、しかし美しい少女だった。
「初めまして、こんにちは。海都から来た冒険者のみなさんですよね?」
その冷たい印象が一瞬で逆転するやたらと明るい笑顔と声に誰もが戸惑う。鬱蒼と茂る常緑の迷宮の中で聞く口調にはとても聞こえない、強いて言えば接客の行き届いた宿屋にでも入った時のような明るさだ。エリホなどはもしかしてここは迷宮の中ではないのではとあたりを見回しているが、もちろんそこにあるのは先ほどまでと変わらぬ緑色の世界である。
「お前は誰だ」
昨日青年にしたのと同じ質問をぶつけると、今回はあっさりと返答があった。
「……怪しい者ではありませんよ。 あたしはオランピア、海都の冒険者を助けるために活動しているのです」
もう一度ニッコリと微笑んで、オランピアと名乗った少女は手にしたバッグから何かを差し出す。
ぴくり、とナーバンの眉が動く。仏頂面の中に、何か淀んだ物が混じった。
「それはなんだ」
不機嫌さを隠そうともせずにナーバンが睨みつけると、オランピアは笑顔を崩すこともなくぐいとその包みをさらに押しだした。
「テントです。この先にある野営地で使えますのでみなさんもよかったらどうぞ」
「そうか」
それだけ聞くとナーバンはその包みを受け取って、続きを話そうとするオランピアを無視して踵を返す。
「え、ちょっとナーバン?」
キタツミの言葉にもナーバンは取り合わないで進む。いや、正確には戻っていく。
あれだけ焦り、苦労してせっかく進んだ道を引き返し、先日見つけた近道を通って、あっという間に入り口へ至る。
「ちょっと、ちょっと!」
樹海から市街へと戻った頃ようやく、何度目かもわからないキタツミの呼びかけにナーバンは振り返った。
「なんだ」
「なんだじゃないわよ! なにやってんの? アンタに言っても無駄かもしれないけど人の厚意を受ける態度じゃないでしょ……じゃなくて、なんで戻ってんの?」
「……船に行こう」
「はぁ!?」
奇声をあげながらも、なんだかこの意味のわからなさこそがナーバンのような気もするキタツミは結局、渋々とそのあとに続く。続きながら考える。おそらく、この振り回されるのはずっと続くのだろうと。 そう考えてやれやれと肩をすくめはしたものの、不思議と怒りは湧いてこなかった。
前を行くナーバンはもう港の管理棟に足を踏み入れていた。
「で、そろそろ理由教えてくれる?」
「気づかなかったか」
簡単な手続きの後、海風に揺られて動き出した小船の上で、どっかりと座りこんで話しこむ体勢を見せたキタツミを立ったまま見下ろしてナーバンは告げる。
「前に、俺の求める物が樹海の奥にあるかもしれない、とは言ったな」
「聞いたね」
「さっきの女、なんと言っていた」
「え、テント使ってくれ、って?」
「もっと前だ」
その言葉に目をつぶったまま天を仰いで必死に記憶を辿るキタツミだったが、少なくともおかしな言葉を発していたという記憶がないため首を傾げる。
「確認していたな、『海都から来た冒険者か?』と」
横からそう言ったのはアワザだ。
「あー! 言ってた言ってた。で? それが?」
思いだしたキタツミが再度問うと、呆れた顔のナーバンが心底馬鹿にしたように言う。
「海都以外から来る冒険者がいるのか?」
「え……あ、いや、でもほら、別の国から来てすぐ樹海に入った人とかは『海都から』じゃないんじゃない?」
「ソレは無理なチューモンだと思うのデスよ!」
次に割り込んできたのはシバンポだ。予想外の人間に遮られてキタツミが目を丸くする。
「そう、無理だ。元老院から地図を受け取り、一階の地図を作り、再度元老院に報告しなければな。そこまでした人間が『海都から来ていない』と答えるか?」
「う、うーん、そう言われれば」
「前にあった金髪のヤツは一声目にこう言った『二階に来たばかりの新米か?』とな。アイツとあの女、オランピアの差はなんだ? エリホ」
「え、えと、あの男は元老院のシステムを知っているから二階に来たばかりなら新米だって解ってますよね。オランピアはそんなこと、二階にいる冒険者がどこの人間かすら知らない、というか……もしかして……えっと」
言葉に詰まったのは、自分の推理があまりに突拍子のないものだったからである。しかしナーバンはむしろその表情を見て確信したように続きを促した。
「えっとですね、その、オランピア自身が『海都から来ていない』のではないでしょうか。なんていうか、元老院の選定システムをスルーできる場所から。だからどういう経緯で冒険者がその場所にいるのかよくわかっていない……とか……」
「そして、その場所だが」
エリホの答えを受けついでそのままナーバンが語りだす。それはつまりエリホの説を全面的に支持していることに他ならなかった。
「樹海の入り口があそこだけで、あれだけの兵士が徘徊している以上……下だ」
「下?」
「もっと下の階から来ているのではないか、と言っている。そしてそこが、俺の求めるもののある場所かもしれない、そう考えている」
「樹海の奥からやって来たって言うの!?」
ナーバンは答えない。その替わりに背を向けてゆっくりとした足取りで船の舳先へと向かう。
そしてそのまま海をじっと眺めて、夜になって、船が港に戻るまで何も話すことはなかった。これが、冒頭でのナーバンの姿である。
そして次の日、と言っても船が戻ったのが深夜だったため次の夜だが、彼らは再度オランピアのいた場所へ向かった。
その場所に彼女はおらず、しかし夜も遅かったのでものは試しと野営地に向かうと、その野営地にこそ彼女はいた。
オランピアはナーバンたちの姿を認めるとまたニッコリと微笑んだ。目をギラギラさせてつかつかと歩み寄るナーバンの形相を見ても一切表情を変えず、微笑んでいた。
「何者だ」
「はい?」
「何者だと聞いている」
「あ、お忘れですか? オランピアと」
「名前ではない、何者だと聞いている」
その言葉を聞くと、一瞬驚いた顔をしたオランピアが口の端をあげてまた微笑む。しかしその微笑みは明らかにそれまでとは異質な、ドス黒いものを含んだ嘲笑に近いものだった。
「そんなこと気にしないで下さい。あたしはあたしの目的のためにやるべきことをしてるのです。時がくれば、あなたたちの力があたしの想像通りに伸びてくれば……お話しできることもあるでしょう」
表情とは異なり声のトーンは全く変わらない。しかしその変わらなさ、変わらなさ過ぎる平坦さが皆の心をぞわりと逆撫でた。
「どこから来た。答えろ、お前はどこから来た、おい!」
ナーバンは詰め寄る。返答はない。さらに詰め寄りってその胸倉を掴もうとした瞬間、オランピアの体はするりとその腕をすり抜けて、そのまま樹海の闇へと溶けて消えた。
「ちっ……」
舌打ちをしてナーバンはオランピアが消えた木々の間を睨みつける。
追いかければ死ぬ。
それが動きのとれない狭い木々の中で樹海の魔物に襲われてか、今消えた少女によってかはわからない。しかしそれははっきりとした確信となって、ナーバンに芽生えはじめた冒険者としての心の警鐘を鳴らしていた。
<しんじゃったら、なんにもなくなっちゃう>
どこからか、声がした。
その声に眩暈を感じて、ナーバンは小さくよろけた。それに気づいたのは傍らのエリホだけだったが、あまりに短い一瞬だったので何も言葉を発しないままでいた。
「船に行く」
翌朝、樹海からもどったナーバンはまたもそう言った。
彼の焦りをずっと感じていた面々の訝しげな顔を他所に、今度は昼の海でナーバンはただ黄昏た。
半日の航海とも言えない遊覧を終えて戻ると、ナーバンは自室へと戻ったらしい。
らしいと言うのは、港を出たナーバンが「先に戻る。今日の探索はナシだ」と言い残して足早に宿へと向かってから、誰も彼を見ていないからだ。
ただ宿屋の息子がした
「さっき見た気がしますけど、夕飯の仕込を手伝っていたので、確かではないです」
という曖昧な目撃証言を採用して「戻ったのだろう」という結論を得ただけのことだった。
そしてさらに翌朝、キタツミは見た。
掲示板に書かれた「しばらく探索は休み、再開時はここに書く」との伝言を。
そしてさらに昼、エリホは見た。
無理を言って鍵を明けてもらった、主を欠いた廊下の奥のスイートルームを。
そしてその日、シバンポもアワザも、ただの一度も見なかった。
己のギルドの自分勝手なリーダーの姿を。
これが、ギルド「ツーカチッテ」がこの世界に残した最初の冒険の記録、始まりの六日間の出来事であった。
(――そんな余裕はないはずだ)
「よっし、ヤマネコはもう大丈夫そうだね」
「ああ、これで無駄に逃げ回る時間が省けるな」
足元に横たわるヤマネコの死体から、素材として使えそうな部位をアワザが切り取っている。それを見下ろしてキタツミと語るナーバンは満足そうだ。
先日不覚をとった相手ではあったが、今しがたの戦闘では殆ど誰も手傷を負うことなく斬り伏せている。
素早い動きはアワザが正面で受け止めることでストップをかけて、鋭い爪は振り下ろされる前にエリホが銃で弾く。牙など剥く暇も与えずにキタツミが拳を叩き込めばもはやそこにいるのは新米キラーの魔獣ではない、ただ体の大きな怯んだネコだった。たかだか二日でこの成果は新人ギルドとしては驚異的な成長と言える。
「んじゃあ、行く?」
くい、とキタツミが親指で示した先には階段があった。リーダーのナーバンはこの提案に当然の如く首を縦に振る、誰もがそう思っていた。
「いや、向こう側にもう少し道が見えるだろ」
「い、いいのですか?」
「なんかその、気持ち悪いだろ、道があるのに行かないのは」
その言葉に応えたのはキタツミの平手だった。
ぱぁんと小気味いい音がして背をはたかれたナーバンは驚きで怒りも湧かない。
「冒険者らしくなってきたじゃない」
「あまり先を急かすとお前らがバテるからな」
ナーバンのその言葉はそのまま先日の自分への反省だったが、それを皮肉ることもなく皆は笑って階段に背を向けた。
(――手に入れなければいけないのに)
しばらくの探索の後、今度こそ行ける場所が無くなり二階へと歩を進める一行。
寄り道だったはずの奥の通路で入り口近くに通じる抜け道を見つけたのは大きな収穫で、ナーバンなどはさもこのために遠回りしたのだと言わんばかりの顔をしていた。だが、その得意げな顔が仏頂面に変わるのにそう時間はいらなかった。二階へ降りてすぐのことである。
「足を止めろ、そこの冒険者よ! 二階に来たばかりの新米か?」
話しかけてきたのはなんとも奇妙な男だった。
「……ただ、互いの力量を量ることなく愚かにも魔物に突撃し、死んでいく新米ギルドがあまりに多いのだ」
何が、と言われるとツーカチッテの誰もはっきりとは答えられなかっただろう。その奇妙さの正体を。
ただわかるのはその腰に挿した二本の剣は倭刀の類であるのにその装備はどうにもシノビのものではないこと、一見軽薄そうな長めの金髪に隠れた視線は鋭く突き刺さるようであること、
「お前たちにも忠告しておく。敵の動きを見て、行動を読んでそして己の動きを決めるんだ」
新米冒険者に道を示す先輩のように見えるのに、何故こうも攻撃的なのか。出で立ちのことだけではなく、彼もまた何か矛盾を抱えている。特にキタツミの目にはそう映っていた。
「お前は誰だ」
「俺か? 今は俺の事はどうでもよい」
ナーバンの言葉を軽くあしらうと、金髪の男は件の魔物のいる道をこれ見よがしに避けながら樹海の奥へと消えて行った。
「どう思う」
珍しくナーバンから意見を求められてキタツミは一瞬戸惑ったが、皆の疑問が一致していることを感じて率直な意見を述べる。
「うさんくさいね。あと……強い」
「あっちは?」
親指で指し示したのは遠目に見える影だ。先ほどの青年が警戒を促した相手、小さく見積もっても人の数倍はあるだろう巨体の大蜥蜴。徘徊する姿は不吉の象徴のようで、一階で苦戦したヤマネコのように不意に襲ってくるわけではなく悠然と歩いているのがなおさら緊張感を掻き立てた。
「……まだ無理、って感じかな。さっきのヤツが戦えば……うん、多分だけどラクショーぐらいの強さ」
「つまり……」
「さっきのスカしたヤツをブン殴るにはアレくらい倒せないとダメってことだね」
不機嫌そうなナーバンの表情から読み取った考えを声に出してみると、当のナーバンがニヤリと笑った。
(――なんでこんな余計なことを)
「確認するよ! 各々一撃与えたら離脱! 回復はできるだけ飛ばすけどアタシが真っ先に倒れるかもしれないからあてにしないでね!」
「優先順位はロイヤルベールのあるナーバン、次いで速度の出るエリホ。俺のことは気にしなくていい」
キタツミとアワザの指示に頷いて武器を構える面々。眼前にはそびえる大蜥蜴の姿。不意を突くエリホの銃弾が顔の付近の皮膚を軽く削り、戦闘態勢になった大蜥蜴の腕をアワザがかち上げる。逆の腕が振るわれ、爪がシバンポを掠めて崩れたところにキタツミの回復が飛び、ナーバンの号令に皆が士気を高める。直後、大振りの爪を一瞬硬直した足運びの合間に真正面から受け止めてしまったアワザが吹き飛ばされ、その体を抱え全力で転身した。
時間にして数秒、あっという間に戦線から離脱して一同、ボロボロの体で何故か笑いあった。
先の青年の言葉を軽んじたわけではなかった。もちろん、彼我の実力差を測れなかったわけでもない。だがナーバンの提案、その実力差をきちんと感じておきたいという提案にだれも反対はしなかった。一番の慎重派であるキタツミが無理は絶対にしないという条件付ではあるが推奨したくらいである。
だから真正面から挑んだのだ。蛮勇ではない、強いて言うならば――
「くそ……遠いな」
握ったままだった短剣を地に突き立てて歯噛みするナーバンにエリホはそっと寄り添う。気がついたアワザは苦笑し、キタツミとシバンポの表情は読めない。己の力量不足を誰もが感じ、そしてそれぞれが心に何かを誓っていた。
(――だが)
「くそ……それにしても」
(――認めたくはないが)
「楽しい……な」
ナーバンの言葉に全員が目を丸くした。
「ナーバン様?」
覗き込むエリホから視線を逸らして口をへの字に結んだ姿に思わずキタツミが噴き出す。
「ぷっ、ははははは! そうだね、楽しい。確かにこういうのが冒険だよ」
危険を冒して何かをつかむ。掴むためにあえて危険を冒す。
そう、それは強いて言うならば冒険そのものだった。
「ふん」
それきりナーバンは口を開かず、視線も合わせなかった。
でもきっと、腕を組んだまま宿への道を歩くエリホがずっと微笑んでいたからその顔は笑顔だったのだろう。
(――生きることは、こんなにも楽しい)
]]>「ねえエリホちゃん、体どう? 痛い?」
席に着いて食後の紅茶を飲みながらキタツミは尋ねる。
「あ、ええと……さすがに節々は痛いですけど、動けないほどでは……」
「シバンポは?」
「ゲンキでス!」
続けての問いかけににっこりと微笑むシバンポと、何一つ問題はない自分の体、目の前の隆々としたアワザの肉体を見比べて盛大なため息をつく。
「つまり、アイツは完全な素人だったってわけね……」
「翌日に疲れを残さないのは冒険者の基本だ、いや、冒険者に限らず普通に生きていれば自分の限界くらいはわかるはずなんだがな」
たった一日の付き合いだったが、寡黙だと踏んでいたアワザが意外と喋るのでキタツミは驚く。が、語る内容は至極まともなので頷いてもう一度ため息。
異常なまでに焦りを先行させ、強行された昨日の探索。その強行に、提案者だけがついていけなかった事実。また矛盾している。
この矛盾の正体がわからないままこのギルドが活動していくことは危険、というよりは不安であるとキタツミは考える。
割り込む形で加わったにもかかわらず、事実上サブリーダーの位置になってしまっているおせっかいな自分の性分に苦笑いしながらテーブルを見回すと誰の手元のカップにもう飲み物は残っていなかった。それでも誰もおかわりを頼んだり、席を立ったりしないのは彼女の指示を待っているのだろう。
結局はそういうこと。ナーバンが何を思ってかは知らないが、そういう人間を集めた結果がこのツーカチッテなのだ。
「とりあえず、筋肉痛で寝込んでる王子様に面会に行きましょうか」
キタツミの提案は当然の如く、満場一致で受け入れられた。
ノックの音ががらんとした廊下に響いた。
昼過ぎともなれば冒険者の殆どは樹海へと入っている。残っているのは事情を抱えて留まっているものか怠け者のどちらかだが、その数は多くない。
結構な回数のノックにも呼びかけるキタツミの大声にも誰も反応しなかったのはそういうわけだ。ただ、呼びかけられている本人、ナーバンからの応答もなかったのだが。
「入るわよー」
無言に対して危機感を感じるでもなく、おそらく起こっている中の状況を予想しながらキタツミは扉をあけた。
ナーバンの部屋は宿屋の廊下の突き当たり、一番奥のスイートルーム。といっても冒険者御用達の宿だからそこまで豪壮なものではなく、ベッドの素材がよくて広い、その程度の部屋だった。他のメンバーは普通の冒険者と同じようにその日その日で宿をとることになっており、特に予約をすることもない。それがいつ死ぬかもわからない冒険者達の流儀であった。
だが、ナーバンは違う。あの日持っていた有り余る金でその部屋を超長期に渡って借りたのだ。他の人間とは決して同じ部屋にならないように、一人でいられる部屋を手に入れたのだ。
(また矛盾してる)
キタツミは部屋に入るとそう思った。
自分たちの物と比べればそれなりに豪華な部屋にぽつんと置かれたズタ袋。豪奢な服装に身を包みながら這いつくばった自分たちのギルドリーダー。
矛盾を次々問い詰めてやろう、自己管理もできないことを皮肉ってやろう、情けない姿を笑ってやろう。そう考えていたキタツミの表情は固まっていた。理由はどうあれ、動かない体をなんとか立たせようとしているナーバンの必死な姿は到底笑えるものではなかった。
「……大丈夫?」
ようやく絞りだした台詞がそれだった。踏み出した足に走った痛みによろめくナーバンの体を駆け寄って支えると、後ろから走りこんでエリホがその体を受け取る。
「ナーバン様!」
「お前ら……よし……樹海へ行くぞ」
聞いた全員が息を飲んだ。もはや無茶などという次元ではない。しかしその言葉は、意思は、あまりに強く咄嗟に否定できる者はいなかった。
「なにをしてる……いっ……」
「ダメです!」
最初に動いたのはエリホだった。抱きとめていた体をそのまま抱きしめて放さない。
「いっ、いだだだだ!? 待てエリホおまっ、はな、放せ!」
「放しません! 今日は休んでください! わっ、私たちは、今日はっ、ぼ、ボイコットしにきたんです!」
ボイコットをしに来るという表現はどうにもおかしいのだがエリホの言葉にもまた力があった。
「何だと?」
「今樹海に行かれたら死んでしまいます!」
「それを守るのがお前達の役目だろう!」
「何度でも言います。お休みください! 私、いくらでもお守りします! 命をかけます! でも、私が死んだ後はお守りできません! 今のナーバン様が迷宮に入ったら、多分一度では済みません! だから、だからお願いします!」
怒気を孕んだ自身の言葉にも怯まないエリホの姿は、誰よりまず当のナーバンを驚かせた。
二人のやり取りをじっと見つめていたアワザが口を開く。
「契約分は働かせろ、契約者死亡で金持ち逃げでは寝覚めが悪い」
続けてシバンポも叫ぶ。
「ゴシュジン! 無茶はダメでス!」
そこまで見て、ため息の後に、キタツミはしゃがみ込んでまだエリホに抱きつかれたままのナーバンに目線を合わせてゆっくりと語りかける。
「あのね、あのさ……えーと、アンタがなんで焦ってるのかは聞かないし、アタシらが聞けるだけの、あくまで聞ける範囲でよ? その、わがままは聞いてあげる。でも、だから……死に急ぐようなことはやめて。あー、でもできれば冒険の目標くらいはいつか聞かせてくれると嬉しいかな? それなら今後もヨロシクしてあげる。わかった?」
噛み含めるような口調で諭されて、ことさらバツの悪そうな顔になるナーバン。
無言を肯定と受け取ってキタツミは立ち上がる。
「それじゃ、今日のところは休みってことにして、明日からまた頑張り……」
「違う」
背を向けたキタツミに声がかけられる。
振り向くと、肩にエリホをぶら下げたまま満身創痍のはずのナーバンが立ち上がっていた。全身を襲う痛みに顔をゆがめ、ただ立っているだけで膝が笑っている。それでも今度は、立っている キタツミの視線に自分が合わせるようにと真っ直ぐ顔を上げて睨みつける。
「ナーバン様!?」
エリホが慌てて手を放す。一瞬ぐらりと揺れた体は踏ん張った足の痛みと引き換えになんとか踏みとどまっていた。
「違う、俺は死に急いでなんかいない。俺は消えたく、死にたくないんだ……だから目指している。あるはずなんだ、迷宮の奥に、俺の望むもの……急がないと、いけないんだ!」
「そ。うん、わかった。じゃあ、精一杯がんばろう、全員でそれを見つけられるように、ね?」
言って、また膝を折るナーバンにキタツミは満足げに微笑んだ。
メンバーが次々と部屋を出ていく。決意を新たにしたような、なにか満ち足りたような表情で堂々と出て行った。
ただその夜、なんとか動けるようになったナーバンがちょっとだけでもと言ってやはり強引に樹海へと向かった時にはその満足度はおよそ七割くらいにまで減少していたものの、という注釈は付け加えておく必要があるだろうが。
時間は夜の七時。
日付は、いまだ皇帝ノ月の一日である。
昼過ぎまでの無謀な強行軍によって大部分が埋められた一階用の白地図と引き換えに、前衛のうち二人が倒れてからまだ数時間しか経過していない。
あの時、なんとか街へと帰還した一行はひとまず宿へ戻って治療と休養をとる予定だった。いや、あくまでその予定はキタツミの脳内のものであって、実際に宿について行われたのは応急的な治療と数時間の休憩だけだった。その数時間すらキタツミが進言しなければ存在せず、樹海へ取って返していたに違いない。それほどにナーバンは探索を急いでいた。それは誰の目にも明らかなほど異常な焦りであった。
キタツミには、もちろん他の誰にもだが、その焦りの理由がわからなかった。もっと言えば、理解ができなかった。
彼女の考えうる常識の中には、どれだけ重要な理由であろうと死の危険よりも優先するものは存在していなかったからだ。あくまで利己で動いているように見えるナーバンが、その実誰よりも自身の命をないがしろにしている事実、その矛盾がいつまでもキタツミの心にこびりついて拭えなかった。とはいえ樹海に戻ってしまった以上は誰も死なせないことを考える方が優先である。パーティーの要であることを言い聞かせて自ら頬を一つ張ると、前を歩くナーバンがその音で一瞬だけ振り向くのが彼女の目に映った。
「……帰るぞ」
ナーバンがそう言ったのはそれから六時間ほど後のことだった。
歩ける範囲で一階の全てを回り地図を完成させるまでにおよそ十と八時間。日付は変わって皇帝ノ月二日の午前一時だった。
ギルド『ツーカチッテ』の記念すべき一日目はようやく終わる。
「ねぇ、明日の探索ボイコットしない?」
宿に戻ったキタツミは女性部屋で風呂上りのエリホとシバンポにそう言った。
「何故、ですか」
おや、とキタツミは思う。聞き返してきたのはシバンポではなくエリホだったからだ。
ナーバンを崇拝する狂信者のごとき彼女はそんな疑問の余地もなく反対するだろうと覚悟していたからである。
部屋に別れる際にナーバンの言った「明日も今日と同じ時間から探索だからな、遅れるな」を盲目的に遂行するのだと、そう思っていた。色々と説得の言葉を用意していたキタツミは少し戸惑ったがベッドに転がったまま言葉を選んで答える。
「んっと……今日みたいなの、よくないと思うんだ。ナーバンが迷宮制覇を焦ってるのはわかるんだけど、これじゃ持たない。アタシがとかアンタがじゃなくて、アイツ自身がだよ。どんな理由や目的あろうと、死んだら終わりなんだ。これを続けたらどんな熟練の冒険者だって万全じゃいられないはずだよ」
とりあえず言葉を切ってエリホの反応を見るキタツミ。しばらくは互いに無言だったが、ほどなくしてエリホが口を開いた。
「……私も今日の探索は危ないと思いました。帰って来た時のナーバン様、明らかに限界でした。ケガや罠からは命をかけて守れても、体力だけはどうしようもありません。できるだけのことはして差し上げたいです。でも、無茶はやめていただきたい……と、思います」
ぽつぽつと語るエリホはキタツミの目にやたらと新鮮に見えた。ナーバンの言葉に唯一反発する自分を敵意に満ちた目で睨みつけてきた少女と同じとは思えなかった。二面性のある性格なのだろうか? 自分に問いかけてキタツミはNOの答えを弾き出す。冷静に考えて見ればこの意見すら大局的にはナーバンを守るための方策であって自分のことは二の次である。ナーバンとはまた違った危うさを感じながらも、賛同してくれたことに対しては素直に嬉しく思いキタツミは顔をほころばせた。
「それじゃまあ、アイツが考え直すまで冒険には出ない、ってことで。シバンポちゃんもいいかな?」
濡れた髪をタオルで押さえているシバンポに声をかけると、振り返った彼女は穏やかに笑って「ムチャ、よくナイデス。ゴシュジン死んダラ、困りマス」とだけ言った。
「決まりだね。でもまあ、たぶん朝からガンガンやりあうことになるだろうし、早めに寝ておこう」
言ってキタツミが消灯する構えを見せるとシバンポはベッドに滑りこみ、エリホも体を横にした。
心と身体を多大な疲労感に包まれた彼女達には、すぐさま深い海の底のような眠りが訪れる。
消灯から数分後にはもう、その部屋で起きている者はいなかった。
それから数時間の探索は順調そのものだった。いや、順調というのはあくまで工程の問題である。慣れない迷宮内で削られる気力と体力から目を背けて突き進む一行。
「自称冒険者はいらないよ」
彼らを見るなりそう言った元老院の老婆の言葉に反骨するように、新人とは思えぬほどの速度で白地図は色に満ちていく。そのペースであればあの老婆が一認める「冒険者」としての試験である一階の地図の制作は時間の問題だった。しかしそれはもしその行軍を続けられるのならば、の話である。
実のところ、誰もがこの無茶苦茶な速度での探索をを支持して行っていたわけではない。ただナーバンに追従するか、あるいはその行為に対し何の感情も抱いていないか、それだけのなし崩し的な強行軍であったのだ。そんなもの、崩れるほうがよっぽど時間の問題だった。
「ちょっと、待ちなさいって! エリホちゃん息切れてるでしょ! あ、ほら後ろの隊列と離れてる! アンタ戦闘になったら後ろに下がるんだからそんなに前にでるんじゃないの! コラ! 聞いてる!?」
ただ一人不満を隠そうとしないキタツミは声を上げ続けていたが、ナーバンは時折うざったそうに後ろを振り返って舌打ちをするだけだった。それ以外、その目は常に前を、そしてその先を見つめ続けていた。
問題の時間は案外に早く訪れた。昼前、それまでと違う魔物と遭遇した時のことだった。
遭遇から数秒、エリホが血に塗れて倒れたのを皆が半ば呆然と見下ろしていた。
「な……」
「走れっ!」
困惑した声を出したのはナーバン、意識の綱を手放したエリホを抱き上げて絶叫と共に瞬転したのはアワザだ。
大きな猫のような魔物だった。動きは機敏、攻撃力はそれまでに戦った他の魔物の比ではなく、ただでさえ万全とはいえない状況で、戦闘すれば全滅は確実だった。だからこのアワザの判断は絶対的に正しい。正しいに違いないのにその瞬間のナーバンの表情は暗雲を思わせるものだった。
それでも、それまで戦闘中でも殆ど声を発していなかった年長者の叫びにナーバンを含めた全員が駆け出す。露に濡れる樹海の木々に汗の玉を飛ばしながら彼らはその日はじめての逃走を試みた。数十歩走って振り返ると、もうその魔物は興味をなくしたかのように踵を返して茂みに消えていくところだった。
「よし、もうよさそうだ」
それだけ言ってゆっくりとエリホを地に横たえるとアワザはまた口をつぐむ。目線はナーバンを捕えたまま動かない。無言のままに次の指示を促していた。
「ダメ、街に戻って治療するしかないね」
エリホの様子を見ていたキタツミがそう言うが、歩み寄ったナーバンはまたもその言葉を黙殺する。そして膝をつくとエリホの体を抱え上げ、顔を引き寄せる。
懐から出したのは、先程探索中に見つけたネクタルだった。
「ちょっとアンタ、まさか」
封をあけると一気にそれを口に含んで、そのままエリホに口付けて流しこんだ。
血の気が引いたエリホの顔に生気が戻り目を覚ますとナーバンはすぐさま進軍を指示した。
「ちょ、待って、待ちなさいコラ!!!こんな無茶苦茶な、ネクタルだって貴重品で……ねえ!」
キタツミは叫んだがやはり無視された。立ち上がったエリホはぼんやり覚えている唇の感覚に呆けながら真っ赤な顔でふらふらとナーバンについていった。シバンポとアワザが表情を変えずにゆっくりと歩き出すと、キタツミはまたも言いかけた言葉をぶら下げたままそのあとに続く他なかった。
それからも彼らは次々と地図を描いていく。明らかなオーバーペースで。
日の当たる花畑も、流れ落ちる水が煌く広場も、生い茂った常緑の道も、全てただの記号に変えて紙へと注ぎ込む。罠にかかった小動物も、注意を促す立て看板も、もはや言葉を発する気力もなくなったキタツミも、全て無視し尽くして前へと進んだ。
日が真上に昇った頃、キタツミとアワザが同時に膝をつくまでその無茶苦茶は止むことはなかった。
「ちっ」
樹海に向かう道でもナーバンの機嫌は直らなかった。
「すいません、私達が未熟なばかりに、ナーバン様に不愉快な思いを」
傍らに寄り添うパイレーツの少女は、先ほどのナーバンの態度をたしなめるでもなくむしろ自分を卑下してナーバンに頭を下げる。
少女は名をエリホと言う。数日前、海岸に打ち上げられているところをナーバンによって助けられたパイレーツで、彼を敬愛し崇拝していた。
「ふん……確かにお前達、いや、俺も含めて新人には違いあるまい。ただ、ヤツの目が気に食わなかっただけだ。何もかもお見通しってあのツラがな」
「しかし」
「くどい。お前達だけのせいではないと、俺が言っている」
食い下がろうとするエリホをナーバンが一喝すると、どこからか声が聞こえてきた。
「そうそう、そいつの言う通り。お嬢ちゃんは悪くないぞー」
「何!?」
頭上から聞こえてきた声に反射的に返すナーバン。視線の先にあったのは背の低い建物で、その屋根に一人のモンクがいた。赤い髪を後ろで編んで、青い瞳でナーバンたちを見下ろしている。おそらくは女性であろう。
ぐっ、と膝を曲げて跳躍すると、その女性はナーバンの目の前に降り立った。数メートルの高さからのジャンプだったにも拘らず、その着地はしなやかで音もしない。
「誰だ、貴様」
「人に名前を聞く時は自分で名乗るのが礼儀って」
「絡んできたのは貴様だろう」
お決まりの台詞を遮るようにナーバンは問い詰める。
イタズラが不発に終わった子供のように残念そうな表情でモンクの女性はため息を付く。
「あたしはキタツミ。武者修行中のモンク。といっても、故郷はここだから郷帰りの真っ最中、かな?」
「ナーバンだ、王家の血を引いている。こいつはエリホ、後ろにいるのがシバンポとアワザだ」
一瞥もせずに指だけで指し示して紹介をするナーバンに、キタツミは不満げな表情になる。が、ナーバンはそれを意にも介せずさらにキタツミに問いかけた。
「さっきのはなんだ? うちのギルドに何か文句があるのか?」
返答次第ではただで済まさぬという雰囲気のナーバンに対して、キタツミはあくまで緊張感のない不満げな子供のような顔を続けている。
「んー、それなんだけどさ」
キタツミは言いながら、つかつかと歩み寄りナーバンの横をすり抜けた。
「まずアンタ、なんで何も言わないの?」
止まったのは先ほどアワザといわれたウォーリアーの前だ。逞しい肉体といかつい顔。いかにも戦士といった風貌の男性で、年の頃は30半ばに見える。
「見たところアンタが最年長、雰囲気からして素人でもないわよね。なんで黙ってこの子のことを見過ごしてるの?」
腰に手を当てて見上げるように睨まれたアワザは、慌てる様子もなく淡々と答える。
「俺はリーダーに金で雇われた。金の分は雇い主に従う」
「ああ傭兵さんね。でもさ、いくら貰ったか知らないけどこんなガキんちょのお守なんてすることないんじゃない? お金貰ってトンズラしたら?」
キタツミの言葉にエリホが掴みかかりそうになるのを、ナーバンが腕で制する。
「職業倫理の問題だ」
それだけ言ってこれ以上の問答はいらぬという顔で口を一文字に結んだアワザを見て、むしろ満足そうにキタツミは頷く。
「まあ、それならいいけど。で、ナーバンくんだっけ? アンタ、この人のこういう話聞いた?」
「必要なかろう」
「どうかしら、彼がたまたまプライドの高い傭兵だったからいいけど、あたしが言ったみたいにトンズラするような人だったらどうするつもり?」
「…………」
ナーバンは無言。キタツミはとりあえずそちらには触れず、横にいたビーストキングの少女に向き直る。先ほどシバンポと言われていた娘だ。
「あんたはなんでついてきたの?」
「ワタシ、奴隷デス。ナーバン様、ワタシを買った。ダカラ、オトモしまス」
「買った? へぇ、あんた金持ちねぇ」
後ろに声を飛ばすもナーバンは答えない。
「でも、奴隷なのに見張りも鎖も鉄球もない。逃げちゃえ逃げちゃえ」
笑って言うキタツミにシバンポは微笑む。
「イエ、ゴシュジンにシタガウ。それが一番ダイジです」
「ま、こっちもこういう子ってわけか」
アワザの時同様に満足そうに頷いて、後ろ向きに歩き、再びナーバンの前に来ると少し腰を落とした。
目線をナーバンに合わせるようにして、じっと見つめる。
「なんだ」
「ま、後ろの子、エリホちゃんだっけ。その子はもう首ったけなのが見てわかるから聞かなくてもいいんだけどさ。あんた、本当にこんなメンバーで樹海に入るの? こんなまともに意思の疎通もできてないようなガッタガタのギルドで?」
じっと見つめる目は、からかうでも叱るでもなく、決意を問うているようだった。
「ああ、あの底に行かなければならない。俺の求めるものがきっとある」
「どうしても?」
「なんだ、邪魔をしようとでも」
「どうしても?」
質問は許さない、決意を問うている。二度目の問いかけでナーバンにもそれがわかった。
「……どうしてもだ」
「じゃ、よろしく」
返事を聞くや、キタツミは右手を差し出した。
一般的には握手を求めるポーズだったが、突然のことにナーバンは意味を図りかねてその手をじっと見ていた。
「何がだ?」
「あたしもついてく、って言ってんの。こんな危なっかしいギルド、見てらんないもん」
「何が目的だ」
利益にならない、理屈に合わない申し出を理解することができないナーバンは顔をあげることもなくただキタツミの手を見つめ続けながら問う。
「強いて言えば武者修行後の腕試し。でもまあ、本当にお節介で言ってるだけだから、気にしないで。気にしないんでしょ? 相手の思いなんて」
「……確かにそうだったな」
それまでのやり取りの自分を顧みて、少し笑ってナーバンは言った。
「ならば利用させて貰う」
「はいよ、よろしくね。えっと、なんてギルドだっけ」
「『ツーカチッテ』だ。王家の古い言葉で『地を這う者』という意味を持つ」
ぱす、と差し出されたキタツミの手を軽く払って、ナーバンは歩き出した。
「あっ、かわいくない子ね全く!」
すたすたと歩きはじめたナーバンに当然のように三人が連なり、その横を並走するようにキタツミが歩く。
「ほら! 握手! しなさいってば!」
「断る」
あくまで応える気のないナーバンに業を煮やしたキタツミが無理やりその腕を掴もうとすると、身体をねじ込むようにエリホが割って入った。そしてナーバンの腕に自分の両腕を絡ませると、行き場を無くした手を持て余しているキタツミにアカンベーをして見せる。
「ったく、この子らは……」
苦笑するキタツミが頭を掻きながらその列の真ん中に入ると、後ろから手を握られた。
「ヨロシク、キタツミサン」
振り返ると、シバンポがキタツミの手を取って笑っていた。
「ん、あー、うん、よろしくね」
はにかみながらキタツミは歩く。
樹海の入り口はもう目の前に迫っていた。
その日、お父さんが亡くなりました。
と言っても突然のことではなく、ずっと具合が悪く臥せっていたのがついにということなので心の準備はできていました。
準備ができていなかったのはその後のことです。
毎日のように病床に押しかけていた連中が僕に押しかけてきたのです。
お父さんは農場の経営者でした。お母さんは僕が生まれて間もなく亡くなったそうですが、農場の動物達に囲まれていた僕は、たまにしか寂しくありませんでした。アーモロード一の大農場なのだと、元気な頃お父さんはいつも自慢げに言っていました。
ただ、僕は動物には好かれるが経営の才能がないので友人の経営者に譲ろうか、とも話していました。
押しかけてきた連中は、その友人は譲渡を断ったと、よくわからない書類を僕の顔に押し付けました。そして、この農場の権利を買い取ると、一方的に言ってきました。
経営の能力がないと言われた僕でしたが、お父さんから聞いた話の端々から自分の家の農場の価値くらいはわかっていました。
彼らがテーブルに叩きつけた皮袋に入っていた金貨はそこいらの土地と家が即金で買えるほどの額でしたが、それがお父さんの農場の価値には程遠い額であると分かりました。
「それだけあれば新しい生活をするには充分でしょう。盆暗な跡取りには過ぎた金額だ」
最後にそう言って、僕は家を失いました。とぼとぼと家だった場所を出る時、一匹の羊だけが僕の後をついてきました。
僕に一番よく懐いていていた、羊のナンナンでした。
そうして、ナンナンとふたりきりで大金を持ったまま宿を探して街を歩いていたのが多分、昨日のことです。
繁華街に入るころ、突然後ろから頭をガツンと殴られた感じがしました。受身を取ることもできず道に倒れこんで、口に砂が入ったのだけは覚えています。
覚えているのはそこまでなのです。
今は外が明るいので、多分翌日の昼なのではないかと思っています。
おそらくは、誰か僕が持っているお金を狙った強盗に襲われたのだと思います。その証拠に皮袋だけがなくなっています。
ここは、多分宿屋だと思うのですが、それ以外の荷物はベッドの下に置いてあります。ベッドの下からナンナンが僕のことを見ています。道に倒れているところを誰かに助けられたのでしょうか。
お腹は、不思議と空いていません。最後に食べたのは多分一昨日の夜だと思うんですけど。
お父さんの葬儀はきちんと行われたのでしょうか。あの連中が、多分関係者が集まると不利になると思ったのでしょう、ちゃんとするといってお父さんの遺体まで僕から奪いました。
僕は何か悪いことをしたのでしょうか。
ナンナンが鳴いています。
誰かがドアをノックしています。
助けてくれた人でしょうか。
簡単に話を聞きました。
僕を助けてくれたのは、冒険者ギルドの方だそうです。
ギルドの名前は『C.A.S.W』。
さっき部屋に入ってきたのはギルドリーダーのモッズさん。バリスタなのだそうです。
ただひとつ、いや二つ不思議なことがありました。
僕が倒れていたのは繁華街近くの道ではなくて、この宿屋の前だったそうです。
もうひとつ、今日はあの日から三日経っているのだそうです。
なにがどうしてそうなったのかは分かりませんが、ひょっとしたら動かない僕をナンナンが運んでくれたのかもしれません。
それはともかく、モッズさんに事情を説明したところ
「帰る家も金もないってんなら、うちのギルドで一緒に冒険者でもするか?」と申し出ていただきました。
他にあてがないので、僕なんかでいいのですかと聞くと、「ん、困った奴を見捨てて置けない性分でね。それに、賢者ノージ曰く『こいつの使い道はまだあるぜーっ!!』ってな。どんなヤツでも何かの役にゃ立つんだ。食い扶持を稼いでもらえる程度には働いてもらうから覚悟しとけ?」と言ってくださいました。
僕はそのノージさんという方を知らないので意味はよくわかりませんでしたが、とにかく僕でもギルドの一員として参加させていただけるとのことなので、これからはこのギルドで冒険者として頑張って行こうと思います。前向きなのがお前のいいところだとお父さんにも良く言われました。
ナンナンがすりよってきました。そうだ、この子はどうなるんでしょう。冒険に連れて行ってもいいのでしょうか。そのへんも含めて、後でモッズさんに聞いてみようと思います。今はまだ、頭がぼんやりしているので少し眠ろうと思います。
最後に一応確認、僕の名前はナナビー。農場を追われたファーマー。これは間違いない。
しばらく走って、彼は海岸に出た。
常夏の島に吹く潮風はじっとりと温く、彼の金色の髪を少しだけ乱した。眼前の海に波は少なく、寄せては返す波が所々でぶつかって平らになってはまた揺れる。
ここ、海都アーモロードにおいては少し歩くだけで簡単に見ることのできるありふれた風景ではあったが、彼にはそれすら憧れの対象だった。自分を閉じ込めていた牢獄をついに打ち破り見る世界は全てが輝いて、祝福とともに迎え入れているように思えていた。ずっと見つめていたいと考えていたが、自分には時間がないことを思いだして振り返る。
そこには樹があった。
ただの樹ではない。
都市の中央にあるその樹の幹はこの島の何よりも太く、広がる枝はこの島の何よりも広く、そびえる姿はこの島の何よりも高かった。
「世界樹」
この都市に生まれたものは誰もが共に在り、またその樹には誰もが知る伝説があった。
「樹の下には迷宮があり、その先には100年前に沈んだ古代の超文明都市がある」
伝説は都市の内に留まらず、島の外からも多くの冒険者をこの地に呼び寄せた。迷宮は確かに存在していた。しかし、未だ誰もその深奥へと到達したものはいない。未知を湛えたその穴は毎日のように新たな冒険者を飲み込み続け、その多くを還しはしなかった。
「もし、本当にあるなら」
少年は呟いて拳を握る。握られた拳には大きな皮袋が下がっている。
ずしりと思いその袋を確かめるように軽く振るとジャラ、と金属片が擦れ合うような音が鳴った。
「まずは仲間、いや、手下か……この金でなんとか……」
言って、視線を一度海へと戻す。
視界の端に何か、波とは違うものが動いた気がして少年は注視する。
それが人であることを認めて走りだすと、手元がジャランジャランと派手な音を立てた。
「おい、おい!」
浜に打ち上げられていたのは少女だった。赤い髪を後ろで編んで、大きく見えた額が印象的な、ずいぶんと幼く見える。
呼びかけに答えない少女の頬を叩くと、僅かに反応があった。生きている。それだけ確認すると少年は少女を抱えて街へと向かった。女の子って軽いんだな、と手に持った皮袋と比べて考えながら少年は歩く。
ずぶぬれの少女を抱えた少年の姿を人々は奇異の目で見たが少年は意にも介さない。見られても関係ない、どうせすぐにいなくなる人間の姿だと、そんなことを考えているうちに一番近い医院へと辿り着いた。彼が普段行っていた医院とはかなり離れていたため飛び込んできた少年を知るものはいなかった。
「この子を、助けてくれ」
少年がそう言って床に少女を横たわらせると奥から顔を出した医師が不快感を露わにした。
「君、どこの子だか知らないが厄介ごとは……」
医師の言葉を無視して皮袋をまさぐっていた彼は、その中から取り出した数枚の貨幣を床に投げ捨てた。
「これで文句あるか?」
拾い上げるまでもなく医師は絶句した。
彼の病院であれば1枚で半年は入院できる額の金貨だった。
「ちょっ……君!?」
顔を上げた医師の視線の先にはすでに少年の姿はなく、エントラスのドアが軋んだ音を立てて閉まるところだった。
「これで文句あるか?」
次に少年は服屋で先ほどと同じ言葉を吐いていた。
店の中でも上から数えたほうが早い高級な服の数々を買い込み、代金の心配をした店主に金貨を投げつけて。
「これで文句あるか?」
奴隷商人から一人の女性を買い取った。
「これで文句あるか?」
傭兵にも、同じように言い放った。
「これで文句あるか?」
冒険者が集まる宿で、自分専用の部屋を用意させた。
二日後、彼は少女を預けた医院に姿を見せた。
その姿は二日前とはまるで別人だったが、用件を告げて中から現れた医師が彼を見て何か得心がいったという表情を見せた時、少年はニヤリと笑った。うやうやしく一番高級なベッドのある部屋へ通され、少年はそこに眠る少女を見下ろした。蒼白だった頬には紅が差し、消えかかっていた息吹は確かな寝息に変わっていた。安心して、布団をはがし、襟首を掴んで揺する。
「起きろ」
医師は一瞬止めるべきかためらったが、部屋に着くまでに彼女が全快に近い状態であることを告げていたのでやむなしと判断して踏みとどまった。
「ふぇ? はぅ?」
「起きたか」
「え? あの? 誰?」
「お前の命の恩人だ」
少女は襟首を掴まれたまま、そう告げた少年の顔をまじまじと見つめ視線を落として服装をじっくりと眺めた。
「……やっぱり!」
自分の大声でかすかに残っていた眠気を吹き飛ばすように少女は叫ぶ。
「やっぱり、やっぱり私のことを助けてくれたのは王子様だったんですね!!」
「ああ、そうだ」
微笑みに邪悪なものを含ませながら少年は即答する。
貴族然とした風貌に控えめな大きさの王冠を頭上に頂いた少年は少女の体を抱き寄せて、耳元で告げる。
「お前の命は俺が救った、つまり、お前は俺のもの、ということだ」
「え、あの……はい」
少女は一瞬の戸惑いを見せたが、その高慢な言葉に肯定を返して頬を赤くした。
「では、その命尽きるまでつき合ってもらおう。あの世界樹の迷宮への旅を」
少年は笑った。
少女に向けてではなく、確かにそこにいる誰かに向けて笑っていた。
「お名前を教えてもらってもいいですか、王子様」
少女が問うた。
「ナーバン、王家の血を引き、ギルド『ツーカチッテ』を率いる、お前の主の名前だ」
「ナーバン様……」
恍惚の表情で尊い物のようにその名を呟く少女に少年、ナーバンもまた問うた。
「お前は、我に従い命を共にするお前の名はなんだ」
「私は、エリホ……貴方に出会うために生まれてきた女、エリホです!」
笑顔で飛びついてきた彼女の体を抱きとめて、少年は手に持っていた皮袋を振る。
ポス、と小さな音が一つだけした。
寝間着のエリホの手を引いて、ナーバンは部屋を出る。
「退院だ」
いつの間にか扉の外で様子をうかがっていた医師に言葉と共に皮袋を投げつけて通り抜ける。医師がそれを逆さにして振ると、一枚だけの金貨がぽとりと彼の手に落ちた。
ここに、この物語は一つの始まりを見せる。
いずれ迷宮の深奥にて一つの結末へと終結する二つの物語の片割れが今、祝福された世界で全速力で動き出した。